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『方便』は親切心です

ラダック寺院の
India , 2004

方便』と言うと、日常では「嘘も方便」という使い方くらいしか思いつきませんが、
しっかり仏教語です。

「方便」はサンスクリット語のウパーヤ(upaya)を訳した語で
目的に到達するための道すじ」をあらわし、普通は「方法」「手段」の意味で使います。

仏教語としてのウパーヤは
巧みなはかりごとを設けること」「巧みになされた手段」と意味し
ブッダが衆生を救うために巧みな手段を用いるのが「方便」です。

「方便」が巧みな手段になるためには、その目的が重要です


結婚して間もない頃、家内が寺に入ることになったのだから
仏教の勉強を基礎からしたいと殊勝なことを言うので
浄土真宗の通信教育(そういうのがあるんです)を始めることにしました。

初心者向けのコースのテキストを取り寄せてみたら
浄土真宗について大学講師が書いた文章が、何を書いているのかさっぱり分かりません。

要旨も分からない上に、初学者向けのテキストなのに未知の専門用語ばかり並んでいました。
一読して「頭悪いんじゃない?」
再読して分かったのが、受講者に向けて書かれていない文章ということでした。


普通、新聞でも週刊誌でもある程度、読者層を想定して記事が書かれています。
成人に向けてか、中年の男性にむけてか、20代の女性に向けてか等々。


例えば、私がこのブログで読者として想定しているのは
1)明西寺の門徒(檀家)
2)テーラワーダ仏教(上座仏教)に関心ある方
3)それ以外のたまたまブログを訪れた仏教とも寺とも全く縁遠い人達


1と2の方を具体的に思い浮かべながら、
記事の内容は3の方に「なるほど」と思ってもらえたら嬉しいな、と考えています。


なぜ通信教育のテキストが受講者向けに書かれていないかと言うと、
(ここからは私個人の見解です)

浄土真宗では教義に関して、宗派の公式見解と違うことを言うと
異安心」(いあんじん)と称され、異端扱いし排除されるという歴史があります。
カトリックみたいに教義の解釈権は、本山のみが持つようなものです。

そうすると、おおやけの目につくところで発表される文章に関して
「突っ込まれないように」自己規制するのは自然なふるまいだと思います。
誰しも与えられたポジションは失いたくないですからね。

突っ込まれないためにはどうすればいいか?
宗祖の親鸞聖人や過去の高僧の言葉を引用すればいいんです。
絶対に文句のつけようがありません。
文句のつけようが無い代わりに意味もさっぱり分かりません。

保身を第一に考える人間の文章は、とにかく失点をしないことだけを念頭に
書かれているから、そこに込められたメッセージを読み取ることはできません。
毒にも薬にもならない空疎な言葉が羅列されているだけです。


私が読書していて、一番面白いと思う本は

一流の人が小学生にでも分かるように書いてくれたもの」です。

どんなにすごい事でも、それを教えてくれる人がいなければ、そのすごさは分かりません。


真宗のある高僧が

「方便は親切心である」

という言葉を残しています。


相手に大切なことを教えるために、あの手この手を使って分からせようとすることは、
根本にどうにかして、この大切なことを理解してもらいたいという思いがあってのことです。


仏像だって方便です。
実際は木で作った人工の像です。
しかし、そこに仏像があることによって、ブッダのことを思い浮かべ
修行のはげみとなるという役割もあります。
「仏様がみているから、悪いことしてはいけないよ」とおばあちゃんが
仏像を示して孫を教えさとすのも、孫のことを思うが故ならば、否定できないでしょう。

言葉も方便です。
ブッダが至った「涅槃」の境地は言葉では表せないといいます。
しかし、その「涅槃」に至る修行方法を
ブッダは見事に言葉で伝え、数多くの弟子を導いています。


たくみな方便には、慈悲の心が不可欠です。


キャッチボールが上手な人が、相手がどんなところに放っても受け取り
自分が投げるときは相手の一番取りやすいところに投げるように
(分かっていない)相手に合わせなくてはなりません。

素人相手に専門用語で煙にまくというのは、不親切だし
何も分かっていないことの証明でもあるでしょう。
深く理解していれば、相手のレベルに合わせてかみ砕いて説明できるはずですから。


テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老がおっしゃっていたのに

ブッダの説法は、日常(現実)から語り始め、
決して「法」(概念)から始めることはなかった。


それは、聴く者が理解しやすいようにということと、
覚りの世界や天界のような人間が確認できない境地のことから話すと
(妄想して)人間を愚かにするからという配慮があったから。


とのことです。

完全に覚ったブッダが、さっぱり分かっていない相手に
至れり尽くせりで「法」を説く姿が目に浮かびます。
親切心があるからこそ、たくみな方便がちりばめられているわけです。


このブログも、
ブッダの教えを紹介することによって
迷信やしきたりに振り回されず、いろいろなものにだまされず
明るく日々過ごしていける方便になると嬉しいなと思い、始めました。
なかなか「たくみ」にはなりませんけれど。

生きとし生けるものが幸せでありますように
このブログを読んでくれたあなたが幸せでありますように

 ※参考書籍 『仏教語源散策』中村元編(東書選書) 『仏教語大辞典』中村元著     

写真は、ラダックのチベット仏教寺院の巨大な仏像

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プロフィール

ハラジュンリョウ

Author:ハラジュンリョウ
大分市明西寺住職。
1972年生まれ。
武蔵野美術大学彫刻学科卒業。

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