Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

なむなむするばかりじゃダメですよ 『南無』

アンコールワット礼拝
Cambodia , 2005

以前の記事(2012/4/19)にも書きましたが
インドでは、あいさつは「ナマステ」さえ覚えておけば大丈夫。
おはよう、こんにちは、こんばんは、さようならまで全て使えます。

なぜかというと

「ナマステ」は「namas」(敬礼する)+「te」(あなた)で
「あなたに敬礼する」という意味だからです。

このnamasが漢訳されて「南無」となりました。
(※音便でnamo等に変化する場合もあり)
音訳なので、南や無に意味はありません。
意味で訳すと「帰命」となります。

浄土真宗の親鸞聖人の書かれた『正信念仏偈』の冒頭の二句

「帰命無量寿如来」 きみょうむりょうじゅにょらい
「南無不可思議光」 なもふかしぎこう 又は なふかしぎこう

これは対句になっています。

つまり

帰命 無量寿如来     無量寿如来に帰命します
↓    ↓
南無 不可思議光(如来) 不可思議光(如来)に南無します

namas=南無=帰命 ですが
漢訳は微妙にニュアンスが違います。

「帰命」の命は、革命の命と同義です。
中国の皇帝は、天からの命令により(天命)により、皇帝(天子)となる。
革命は、その天命があらた(革)まり、天子を追われるといった意味です。

ですから、「帰命」は天からの(この場合は如来からの)命令に帰依するという
従う」とか「言う通りにする」という感じが強くなります。

「namas」の持つ尊敬して礼拝するという意味よりも
ある特定のものを信じるという「信仰」の意味に近づきます。


例えば、日本の仏教宗派が唱える

「南無阿弥陀仏」
「南無妙法蓮華経」
「南無釈迦牟尼佛」

などは、少々排他的な感じがあります。
私は浄土真宗の僧侶ですが、浄土真宗の人間が
「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることは絶対にありません。

同様に法華経を信奉する人が「南無阿弥陀仏」と唱えることも
まず絶対にありません。

しかし、浄土真宗日蓮宗禅宗などの鎌倉新仏教の祖師方が学んだ
比叡山の天台宗では「朝題目、夕念仏」と言うように
朝「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、夕刻「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え
昼に座禅、というように総合的に修行していました。
大らかに仏教を学べる場だったのだと思います。

その比叡山から色々な祖師たちが飛び出したというのは
総合的なところから、修行方法を絞って細分化していった流れなので
自分達が切り捨てた経典や修行は、全く省みられなくなり
他への理解が無ければ、独善的・排他的になるのはやむを得ないでしょう。

ただ、各祖師方がそれぞれ選んだのは修行方法、つまり「覚るための方法」なので
手段は違えど、目的は等しく「覚り」を目指す者同士なわけですから
仲良くやればいいのに、現実そうでないのが残念です。


以前、見知らぬ人から手紙が届きました。関西方面からでした。
封筒の中には、一枚のコピーが入っていて
念仏無間地獄抄』というおそらく日蓮上人の文章なんでしょうね
念仏する者は無間地獄に堕ちるぞ、とかそういう部分のコピーでした。

そのコピーを見て、笑ってしまいました。

それを送ってきた目的は何なのでしょうか?

嫌がらせだとしたら、まあ成功というか、相手に良い印象は与えないでしょうね。
もし、こちらを教化したいのであれば、そんな失礼なことをする人間は
反感を買うことがあっても、共感を得ることはないので、それは失敗でしょう。

どちらにしろコミュニケーション能力の著しく低い一般常識の無い人という印象しか与えないので、
わざわざ労力を使って自分を貶めるようなことをしなければいいのに、と思いました。

どうせなら頼りにする教えは違っても、なかなかやるなと思わせてくれればよいのに。


そんな経験をしたこともあります。

まだ20代の頃、たまたま知り合いになった文筆家の方が
禅宗の専門道場の老師に会う機会を作ってくださったので、その禅寺を訪問したときのこと。

玄関で迎えてくれた雲水(修行僧)が座って深々と頭を下げ挨拶をする姿に衝撃を受けました。
「負けた」と思いました。(勝ち負けじゃないですけど)
挨拶ひとつをそこまで丁寧にされると、頭を下げていても、
その下げた人の方が、自分よりはるかに尊く立派に感じました。

何も言わなくても、所作だけで教えを伝えることだってできるのです。


そう考えると、
自分の正しさばかり主張し排他的な「南無」の世界よりも
目の前の相手に尊敬の心を持って接する「namas」の世界に身を置きたいと思うんです。


ちなみに上座仏教(テーラワーダ仏教)でも

Namo Tassa Bhagavato Arahato Samma Sambuddasa.」

「阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に私は敬礼いたします。」

 とnamoは敬礼の意味です。

お釈迦さまも「私の言うことを鵜呑みにせずに確認しなさい」とおっしゃっている位ですから
お釈迦さまへの「信」も「信じる」というよりは「信頼する」という方が正確かなという気がします。

信仰の袋小路へ入り込まないように気を付けたいものです。


生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
このブログを読んでくれたあなたが幸せでありますように
関連記事
スポンサーサイト

Appendix

プロフィール

ハラジュンリョウ

Author:ハラジュンリョウ
大分市明西寺住職。
1972年生まれ。
武蔵野美術大学彫刻学科卒業。

当ブログの更新情報は
Twitterで送信しています。
アカウント「明西寺」
↓リンクは下方に

コメント欄を設けていませんので
メッセージ、お問合せ等はメールへ
junryo.h@gmail.com

※記事の内容に間違い等あった場合は
 コッソリ教えてください。

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。